エルマルコと音楽の在り方について思うこと

Published on March 23, 2026

エルマルコと音楽の在り方について思うこと

2024年5月15日(水)曇り時々雨

今日、業界の知り合いから、ある新興レーベル「Elmarko」の戦略分析レポートが送られてきた。データを眺めながら、コーヒーが冷めていくのも忘れてしまった。彼らがここ数年で急成長した背景には、ストリーミング時代における「発見可能性(Discoverability)」への、従来の大手レーベルとは根本的に異なるアプローチがあるように思う。

具体的に言えば、Elmarkoはアーティストの育成段階から、データ分析に基づく「マイクロ・ニッチ」の開拓に注力している。例えば、彼らが昨年デビューさせたヴァーチャルシンガー「LYRA」のケースを見てみよう。デビュー前のテスト配信では、BPMが特定の範囲(72-76)に収まり、かつ「憂い」と「浮遊感」をキーワードとした楽曲が、東南アジアと南米の特定の都市圏で顕著なエンゲージメントを示した。彼らはこのデータを元に、楽曲制作だけでなく、ビジュアルコンセプトやSNSでの発信タイミングまでを最適化した。結果、デビューシングルはメジャーチャートにはランクインしなかったものの、Spotifyの「Chill Anime Beats」プレイリストで長期にわたり掲載され、安定したロイヤルティ収入を生み出す基盤を築いた。

一方で、私が長年関わってきた日本のあるメジャーレーベルのA&R担当者は、こうした手法を「芸術の工業化だ」と一蹴する。彼らの哲学は、優れたプロデューサーとアーティストの「化学反応」に巨額の先行投資をし、テレビやラジオといったマスメディアを起爆剤として一気にヒットを生み出す、いわば「ビッグバン」モデルだ。確かに、この方法で生まれた国民的アーティストは数多い。しかし、ストリーミングの課金単価の低下とメディアの分散化が進む中、このモデルの投資回収率(ROI)は年々悪化している。先月の会議では、新人アーティストへの投資回収期間が、5年前の平均18ヶ月から、現在は36ヶ月にまで伸びているという内部データが示された。関係者の顔には焦りと疲労の色が濃かった。

この二つのアプローチを比較すると、それは単なるビジネスモデルの違いではなく、「音楽の価値」そのものの捉え方の違いにまで遡るように感じる。Elmarkoのモデルは、音楽を「特定の心情やシーンに最適化された体験コンテンツ」として位置づけ、リスナーの日常に静かに、しかし確実に浸透させる。対して、従来型のモデルは、音楽を「時代を定義する文化的イベント」として社会に打ち上げることを目指す。前者は持続可能性に優れ、後者は社会的インパクトに優れる。しかし、現代のリスナーは、この両方を同時に、しかも同じデバイスの中で求めているのではないか。

夕方、雨が小降りになったので散歩に出た。イヤホンからは、Elmarkoが配信するあるアーティストの、環境音とシンセが融合したインスト曲が流れている。それは確かに私の今の、少し憂鬱な気分にぴったり合っていた。しかし同時に、ふと、十数年前に初めて聞いた、あのメジャーレーベルのアーティストの衝撃的なデビュー曲を思い出した。あの時感じた、時代が変わっていく予感のような高揚感。あの「ビッグバン」がなければ、今の私の音楽への向き合い方も違っていたかもしれない。

どちらが正しいというのではない。むしろ、この二つの極の間で、新しいハイブリッドモデルが生まれつつあるのではないか。データが示す「ニッチ」を尊重しつつも、そこで満足せず、その中から予測不能な「化学反応」をどう起こすか。芸術と工学、直感と分析。この一見相反する要素を、どう統合していくかが、これからの音楽産業のプロフェッショナルに問われている核心的な課題なのだろう。

今日の感悟

音楽ビジネスの未来は、単一の「正解」への収束ではなく、多様な価値観と手法が併存し、時に衝突し、時に融合する「生態系」の構築にある。データは羅針盤にはなれても、航海そのものにはなりえない。最終的に海原を切り拓くのは、やはり人間の、数字に還元できない「これは面白い」という確信なのだから。明日は、あの懐疑的なA&R担当者に会って、Elmarkoのデータの詳細ではなく、彼らが発掘したアーティストの「音楽そのもの」について、じっくり話をしてみようと思う。

Elmarkomusicjapanofficial