「#スタディーJAPAN」は、現代の日本文化輸出の「正しい」姿なのか?

Published on January 31, 2026

「#スタディーJAPAN」は、現代の日本文化輸出の「正しい」姿なのか?

最近、SNSを中心に「#スタディーJAPAN」というタグをよく目にする。公式アカウントが発信する、いわば「正規ルート」からの日本文化紹介コンテンツだ。クールジャパン?ソフトパワー?確かに、そのコンセプトは理解できる。しかし、私は思うのだ。これで本当に「日本」が伝わるのか?と。整えられすぎた映像、選び抜かれた「ハイライト」の連続。それはまるで、観光パンフレットの表紙のように美しく、そしてどこか無機質ではないか。私は、この「公式すぎる」アプローチに、一抹の物足りなさと、むしろ危うささえ感じてしまう。

「音楽」と「エンタメ」の力は、もっと「雑」でいい

日本文化のグローバルな浸透を語る時、音楽やエンターテインメントの力は計り知れない。しかし、その原動力は何だったか。それは、決して完璧に管理された「公式」チャンネルからだけ生まれたわけではない。 さらに詳しく むしろ、海外のファンがアニメのOP曲をカバーしてYouTubeに上げたり、意味は分からなくてもJ-POPの歌詞を必死に覚えて歌ったりする、その「野生」の情熱こそが、文化の根を張らせてきたのだ。公式コンテンツは、その「雑草」のような生命力を、整然とした「庭園」に植え替えようとしているように見える。確かに見栄えはいい。だが、その土の匂い、時にごちゃごちゃした生命力は、失われてはいないか?

「Tier1」だけが日本ではない

「#スタディーJAPAN」のコンテンツは、どうしても東京や京都、あるいは世界的に認知されたポップカルチャーといった「Tier1」の要素に集中しがちだ。それは仕方のない面もある。 さらに詳しく しかし、日本の魅力は、表通りだけにあるのではない。地方の小さなライブハウスで繰り広げられるインディーズバンドの熱気、商店街の片隅で続く伝統工芸の手仕事、深夜の食堂で交わされる何気ない会話——。そういった「公式」のレーダーに捉えられにくい、等身大の、時にぎこちない日常の積み重ねこそが、文化の深みと温もりを作り出す。私たちは、観光局が推す「ベスト10」だけでなく、自分自身で道草を食いながら見つける「マイベスト」を、もっと誇りに思っていいのではないか。

「学ぶ」前に、「感じる」余地を

「スタディー」という言葉には、体系的に知識を獲得するという響きがある。もちろん、それは大切だ。しかし、文化の理解、ひいては共感は、教科書的な知識の積み上げだけでは生まれない。むしろ、初めて聞いた邦楽のメロディーに理由もなく胸が震えたり、ドラマの一場面に涙がこぼれたりする、その「理屈を超えた感覚」がすべての始まりだったはずだ。公式コンテンツは、どうしても「これはこういう意味です」と解説したがる。だが、時に解説は魔法を解いてしまう。もっと、未整理のままの「驚き」や「違和感」を体験する余地を、内外の受け手に残しておくべきではないだろうか。全てが整備された「完成品」としての日本より、まだ発展途上で、矛盾も抱えている「進行形」の日本を見せる勇気が、今こそ必要だ。

終わりに:輸出するのは「文化」であって、「広報資料」ではない

「#スタディーJAPAN」という試み自体を否定するつもりは毛頭ない。国際発信を戦略的に行うことは重要だ。しかし、その方法論について、私たちはもっと自覚的であるべきだと考える。完璧にパッケージングされ、リスクを排除した「安全な日本像」を世界に送り続けて、果たしてそれは長期的な愛着と深い理解を生むだろうか。文化の本質は、その生々しさと多様性にある。音楽にしろ、食にしろ、日常の営みにしろ、時には散らかった部屋の隅を見せるような、そんな等身大の「紹介」があっていい。輸出すべきは、磨き上げられた広報資料ではなく、息づいている「文化」そのものなのだから。次に「#スタディーJAPAN」のタグを見かけたら、その裏側に、公式には映らないもう一つの日本の「音」を、想像してみてほしい。

#スタディーJAPANmusicjapanofficial